片桐且元無念のナレ死。無念(;_;)
いよいよ佳境に入ってきました
真田丸
後3回になりました
本当にあんな女だけの話し合いで外堀や真田丸を豊富側は壊したのでしょうか?
信じられませんけど
片桐且元の最後も最低ですね
ナレーションだけで亡くなるナレ死そのものでした
豊富家の直参家臣で、豊臣姓を許されていた
且元
関ヶ原の戦い以降も 豊富秀頼につかえていたが
徳川家康に協力的な立場で
方広寺鐘銘事件が発生して豊富家が存亡の危機になった時
片桐且元が九度山の信繁を説得しに言ったんですよね
その方広寺鐘銘事件の回想録がなかなかおもしろかったです
その後淀殿(茶々)の信用を無くした且元は大阪城を去ることになりました
真田丸でこの片桐且元役の
小林隆さん いい役者ですね
生年月日:1959年8月20日(56歳)
出生地:埼玉県川越市
血液型:O型
所属:ケイファクトリー
埼玉県立松山高等学校卒業
明治大学文学部文学科英文学専攻卒業
大学時代はヨット部に所属 スナイプ級で関東インカレ団体優勝
三谷幸喜主催の「東京サンシャインボーイズ」の出身
出演
古畑任三郎シリーズ 向島音吉巡査
華麗なる一族 芥川阪神銀行常務
大河ドラマ新選組! 井上源三郎
等があります
僕より一つ上です。
テレビドラマふぁんさんから引用
誕生 1556年
浅井氏が治める近江国浅井郡で片桐直貞の長男として生まれる
1573年の織田信長の浅井長政への攻撃で、小谷城は陥落します
浅井氏に代わり長浜城主となった羽柴秀吉に仕えるようになり、毛利に対する中国攻めにも従軍しました
1583年5月信長の死後、秀吉と対立した柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで七本槍のひとりに数えられました
その後は前線で戦うことは無く馬廻り衆として兵站や後方支援の活動が忠心となりました
1600年、関ヶ原の戦いでは西軍につき、大津城の戦いに家臣を派遣したが東軍の勝利後は、長女を家康の人質に差し出し
豊臣と徳川の間の調停に奔走した
1614年、豊臣家が再建た方広寺大仏殿したが、この梵鐘の銘文について方広寺鐘銘事件が発生
鐘の銘文に書かれた「国家安康」が家康を割る呪詛など非難された
入府した且元は誤解であると弁明に努めた徳川方に譲歩の姿勢が無いと見て秀頼の参勤、淀殿を江戸詰めの人質とするなどの提案を行ったが
淀殿たちの側近から家康との内通を疑われるようになり大阪城を退去した
大阪の陣では人質を送って家康に従属、且元は10月10日に土佐から大阪への米の輸送を禁止しました
10月12日家来の多羅尾半左衛門を300の兵で堺の救援に派遣したが迎撃されて半左衛門は戦死します
11月には小豆島周辺諸国に大阪への物資の回送と大阪城の経済封鎖を命じています
徳川方は真田丸の戦いで敗戦し兵糧不足もあって戦況が思わしくなく、100門以上の大筒や石火矢で攻撃を開始
且元も砲術方に参加した、この戦果が大阪方に講和の席につかせる契機となりました
1615年1月に隠居を願い出ましたが許されず4月に駿府に屋敷が与えられました
江戸への拝謁の途中で大阪夏の陣が起こります、且元は道明寺に到着して徳川秀忠に合流、岡山口への布陣を命じられ嫡男の片桐孝利を送りました
大阪城落城後、豊臣氏は助命かなわず滅亡しました
前年より肺病を患い家康から送られてきた片山宗哲の診察を受けていましたが大阪の陣が終わった後一ヶ月もたたない5月28日に60歳で死去した。